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ええやん! 交野

交野ヶ原 織姫・彦星の万葉歌碑をめぐる2011/01/27

織姫ねっと市民リポーターがお届けする交野市の歴史!

こんにちは。織姫ねっと市民リポーターのネネです。
今回は、歴史ある交野ヶ原に建立された、織姫と彦星(牽牛)にまつわる万葉歌碑を訪ね歩き、それぞれの歌碑に込められた想いや経緯を取材してきました。

万葉集とは

飛鳥時代の7世紀前半から奈良時代後半までの約130年間にかけて編まれ、4,516首の歌があります。
そのうち、七夕の歌は132首で、織女(棚機女)の歌は11首。

交野ヶ原とは

現在の枚方市と交野市一帯のことを言います。
平安時代には貴族たちの遊猟地とされていました。
この一帯を流れる天の川には、七夕の日に彦星と織姫が逢うという「逢合橋(あいあいばし)」がかけられており、古くから伝わる七夕伝説が知られています。

(1)犬養孝先生揮毫(きごう)の歌碑 出典 万葉集 巻8-1418

【場所】枚方市香里ヶ丘の「税務大学校」
【歌碑】石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
【意味】岩にぶつかってしぶきをあげて流れる滝のほとりの、ワラビが芽を出す春になったことだ。
【作者】志貴皇子(しきのみこ)
【特徴】
1、黒御影石で万葉かなで書かれている。
2、最初に志貴皇子懽御歌(しきのみこ よろこびのうた)と書かれている。いったいどんな懽びがあったのか、真意は皇子にしかわからない。
3、歌の最後に押された花押の朱印。朱印が残っている歌碑は少ない。
【副碑】大きさは小さいが、いきさつが細かく書かれている。これだけの長文は珍しい。
【除幕式】平成4年5月29日
【建立の経緯】税務大学校の25期生の有志による卒業記念。
「お世話になった犬養孝先生に書いてもらいたい」とお願いしたところ、この歌を書いてくれたという。
大阪大学の講師であった犬養孝先生は、年に数回、この税務大学校に講義にきていた。
万葉集で高名な先生であり、授業が休みになると、学生を連れて万葉故地を歩いたという。
歌にある「さわらび」とは、春になると枯れ草からいち早く頭をだすワラビのこと。
4月に入る新入生に対して、「さわらびのように元気で一生懸命やっていってほしい」という先生の教育熱心さがうかがえる。
先生の業績を記念し、平成12年には奈良県明日香村に「犬養万葉記念館」が開館した。

香里ヶ丘 豆知識

この香里ヶ丘一帯は、周りを山で囲まれています。
爆発しても、山でくい止められるという立地から、戦争中は軍事工場があったといいます。
またその立地を、「お腹のヘソのようなところに、私の通う小学校があります。」と表現した香里小学校に通っていた男の子がいました。
これは『つづり方兄妹』という本の書き出し部分にもなっています。
男の子は先生に言われて、毎日綴り方(今でいう作文)を書いていました。コンクールに出し入選、しかも特選に選ばれたという結果通知が届いた時には、すでに病気で亡くなっていたのです。
終戦で貧しい中、懸命に生きた男の子の実話は映画にもなり話題を呼びました。枚方出身の森繁久弥も出演していました。本は図書館でも借りることができますよ。

「つづり方兄妹」について → 詳しくはこちらをクリック (参考リンク先:星のまち交野

(2)観音山公園の歌碑 出典 万葉集 巻8-1527

【場所】枚方市香里ヶ丘の「観音山公園」
【歌碑】牽牛の 妻迎え船 こぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは
【意味】七夕の日に、妻を迎えに行くために船をこぎ天の川をこえている。水しぶきが霧のようにたっている。
【作者】山上臣憶良(やまのうえおくら)
【特徴】主碑は万葉かなで、副碑は読み下し文で刻まれた碑面がハート型で囲まれている。七夕に会う彦星と織姫の気持ちにピッタリ!
【建立の経緯】2007年7月7日、全国七夕サミットが枚方・交野で開催された記念として建立された。
公園が高台にあるため、階段で重たい牽牛像をあげられず、機材を使い吊っておろしたそう。
まさに「天空からおりてきた牽牛」そのもの。
さらに階段をあがり、公園の一番高いところに鎮座しているのが「牛石(ぎゅうせき)」。
高さ約1m、幅約2mにもなる大きなもので、よく見ると牛の形に似ている。

観音山公園は、南北朝の動乱で焼失した中山観音寺があった場所ということが確認されている。
観音山の名前の由来でもある。
今では七夕の日になると、地元の子どもたちが集まり笹竹が飾られ、賑わいをみせている。

(3)機物神社の歌碑 出典 万葉集 巻10-2034

【場所】交野市倉冶の「機物(はたもの)神社」
【歌碑】棚機の 五百機立てて 織る布の 秋さり衣 誰か取り見む
【意味】織女がたくさんの機を立てて織る布の秋の着物は、誰が手にとってくれるのであろう (交野ヶ原の七夕伝説に置き換えると、機物神社の祭神である織女が、たくさんの機を立てて着物を
織っているのは、七夕の夜に逢える観音山公園にいる牽牛(彦星)のため) 
【作者】未詳
【除幕式】平成20年1月19日
(2007年度の全国七夕サミットの開催を記念して、観音山公園の半年後に建立した)
【特徴】
1、歌碑の石がハート型になっている。
これが評価され、NHK「日めくり万葉集」のテキストに掲載された。
2、字体は、「機物神社」と同じ「隷書」(れいしょ)にするという宮司のこだわりがある。
3、主碑は万葉かなで、副碑は読み下し文で刻まれている。
織り機といえば、第2京阪国道を建設する際に、2か所から発掘されています。
6世紀ごろのもので、その頃には織り物の技術があったということになりますね。
万葉集ができる、少し前からです。
発掘された織り機の木片(組合わせ式布巻具)は、現在大阪府文化財センターに保存されています。
中村宮司は御年97才。
中村宮司は御年97才。
機物神社の中村宮司にお話を伺いました。

-- 青春は軍隊生活をしていました。 --

中村宮司: 若い頃は陸上の選手で、選手として五輪に出場するか、土地の測量士として働くかと思案しましたが、兵役義務により20才で徴兵検査を受け甲種合格し入隊し、9年間軍隊生活を送りました。
終戦後は、難関をくぐりぬけ大蔵省に採用されましたが、現役将校だったことで公務員にはなれず、半年後に追放令を受け退職を余儀なくされました。妻子もいたので、辛く腹も立ちましたが頑張りました。その後印刷会社に就職し、頼まれた仕事は徹夜をしてでもこなし、必死で働きました。

-- 区長をしていた頃もありました。 --

中村宮司: 今の倉冶の関西スーパーは昔、かご池だったんですよ。当時は農業の時代が終わったこともあり、池の水は濁り、周りは柳の木が生え放題。「なんとかしなあかん!」と思い、反対を押し切りかご池を埋める計画を立てました。そのとき高く入札されたお金をおいておき、その金利を使って水洗便所にする工事をしたんです。
もちろん機物神社も水洗便所なので「水洗でっか!?」と驚かれることもあるんですよ。

ねね: 倉治で水洗便所が使えるのも、中村宮司の行動があったからこそですね。

-- 64才で宮司を引き受けたんです。 --

その後氏子総代をしていた時、前任の宮司が高齢だったため、後任を頼まれました。
その時は「勉強はしなあかん。試験も受けなあかん。」と悩みました。
しかし「よく考えれば9年間の軍隊生活を健康で帰らせてもらった。運がよかった。」年いってから、神様のおかげだとわかり「それは申し訳ない。やらせてもらう。」ということで64才で宮司を引き受けたんです。
「人間まじめに生きていれば、必ず神様が導いてくれます。」
中村宮司は97歳。でも、大変お元気で、背筋もピーンとして姿勢がよく、お話はとてもわかりやすかったです。また、神社には自分で車を運転して来られているようです!
取材で訪れた時、お茶まで出してもらっちゃいました。
-- 七夕祭りを復活させました。 --

宮司になり、神社の歴史を学ぶために古文書を読むうちに、機物神社の主祭神は織女であり、古くから伝わる七夕祭りがあることを知りました。でも祭りは途絶えてしまっていました。
そこで、昭和53年に「七夕祭復活」の発起人として立ち上がりました。もちろん「農期の忙しいときにやめてくれ。」という反対もありました。
しかし七夕祭りは年々盛んになり、30年以上たった今では、約40本の笹竹が5色の短冊に彩られ、境内を埋め尽くすほど立派な七夕祭りが恒例となりました。
昭和53年に機物神社の「七夕祭復活」の発起人として立ち上がられた事が、今日の交野が原の七夕まつりが盛大になり、全国的にも知られるようになりました。中村宮司の大変な功労があったからこそ機物神社の「七夕祭復活」が実現したのですね!! すごい!!!
機物神社の宝物
機物神社の宝物
-- 神社の宝物 --

江戸時代、機物神社の神主は地域の住民が務めており、その当番を決めるのに使われました。
番号が書かれた棒が、おみくじのように出てきます。

(4)星田妙見宮の歌碑 揮毫者 加納正子氏(号 祥苑) 出典 万葉集 巻17-3900

【場所】交野市星田9丁目「星田妙見宮」
【歌碑】織女し 船乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る
【意味】織姫が今にも彦星の迎え船に乗って、天の川を渡っていくらしい。
船出の水しぶきで晴れ渡っていた月夜に雲が広がってきた。
【作者】大伴家持(おおともやかもち)
【除幕式】平成22年12月23日
妙見宮が6年後、創建2000年を迎えるにあたり建立。
この日は天皇陛下の77才の誕生日。7月7日の七夕にかけて、相応しい日となる。
48名の人の寄進者により完成。
【特徴】歌碑に使われた石は、交野市星田の平井孝家の庭石を譲り受ける。
川石で、水の流れで削られながら形を変えていく、とても見ごたえのある素晴らしい石。

星田妙見宮の七夕伝説

昔、弘法大師が交野の寺にお経を唱えに来られました。
その夜枕元に大きな仏様が現れ、眩しい光を放ちます。その仏さまの姿を追ってたずね歩くと、交野の山の中にある獅子窟寺(ししくつじ)にまつられた仏様ということがわかりました。そこで、この仏様にお経を唱えていると、天から星が降ってきたのです(七曜星降臨伝説)。その1つが星田妙見宮の山頂に落ちました。あとは星の森と光林寺。この3か所を地図上で線で結ぶと同じ距離になります(八丁三所)。
星が降臨した星田妙見宮の山頂には、「織女石(たなばたせき)」という大きな石が祀られています。
佐々木久裕宮司
佐々木久裕宮司
案内人毛利氏による星田妙見宮の佐々木久裕宮司のプロフィール

 東大阪市の生まれで、信仰の深い一般の家庭に育ち、大学卒業後、コンピューター関連の仕事に従事していた。

 昭和58年、31歳の頃、実家にご先祖の直筆の北辰妙見菩薩の経文に心ひかれて、初めて同じ妙見菩薩を祀る星田妙見宮に参拝した。その霊験さと静寂な雰囲気にも関わらず、神社の荒廃の様子に「ここを何とかしたい」との思いから、その後神職の道に入る。

 神職資格は、独学で、明階検定試験を取得し、平成8年、宮司に就任する。翌年より、「星祭」「七夕祭」「星降り祭」の三大星祭りを復活するとともに、星田妙見宮と七夕の関わりについて研究する。
今日までに、星田神社・星田妙見宮の毎年毎年の改修整備も進み、平成28年(2016)の創建1200年の式年祭に向けて、新たな整備事業に取り組んでいる。

今回の織姫万葉歌碑建立もその一環である。
案内人の毛利氏によるコメント
神社やそのまわりの環境が、見違えるようにきれいに整備されてきて、参拝者も多くなり、七夕まつりも年々に盛大になってきたのは、宮司の苦労を惜しまないこれまでの命がけの取り組みと、神社総代、氏子の皆さん、多くの方々の数知れない人々のお力添えによるものと思います。

案内人・「毛利信二氏」
今回、万葉歌碑を案内してくださったのは、交野市在住の毛利信二氏です。

出身は石川県。就職で大阪に来て、昭和48年より交野市南星台在住。
もともと歴史散策が好きで、休日になれば古墳を見に行っておられたそうです。
万葉歌碑にも興味を持ったのは、天皇陛下の名前や墓など、古墳とその時代が重なるためだとか。
今から15年ほど前に、枚方で犬養孝先生の講演を聴いてからは、すっかり先生のファンになったそうです。
地域文化誌「まんだ76号」に、毛利氏の書いた犬養孝先生の記事が載せられています。
その後「全国万葉協会」にも入会し、多くの万葉歌碑をめぐり歩くとともに、交野ヶ原の万葉歌碑建立にも大きく貢献しておられます。
毛利氏のホームページはこちら
最後に…
取材をする前は、歴史に無知だった私ですが、毛利氏のわかりやすい説明で、知れば知るほど興味が引き出されました。実際に見て歩き、肌でふれるのが一番ですね。
古き良き郷土の歴史を、後世に引き継ぐのが私たちの役目だと感じました。

番外編

毛利氏が案内してくれた、歌碑以外の交野市星田近辺の見・ど・こ・ろ
【桜の名所】
妙見の桜並木は、「大阪みどりの百選」に選ばれるほど。
春には満開の桜で有名です。見る価値ありですよ!
【伝徳川家康ひそみの薮】
本能寺変で織田信長の自害を知った徳川家康が、身の危険を感じ、この藪にひそんでひとときを過ごしたそうです。

ほんとうに誰かひそんでいそうな雰囲気でした。